クチャラーには仮処分を
弁護士の受任限度
弁護士は訴訟に勝つか負けるかで悩むことはないといわれています。敗訴の可能性がある場合は、受任の際に覚悟のうえで受任していますし、あらかじめ依頼者にも説明しているからです。
弁護士の悩みで多いものは、他の仕事をされている方と同じように、人間関係です。
ただし、訴訟の相手方との人間関係に悩むことはほぼありません。
相手方が攻撃的な人であったり、冷静に判断できない人であっても、想定内ですので全く気にしません。むしろ、通常の弁護士であれば、「ラッキー!」と考えます。裁判官の印象は悪いですし、相手方に弁護士が就いてもその弁護士が困るだけだからです。
弁護士が悩むのは、依頼者との人間関係です。

弁護士は、依頼者のために全力を尽くしています。
ところが、ご依頼者の中には、自分の思い通りに進まないと「弁護士に依頼した意味がない」、「弁護士に依頼したせいで面倒なことになった」などと言い出す人がいるといいます。他方で、スムーズに早期解決すると、「たいして時間がかからなかったのだから、そんなにたくさん報酬を払いたくない」と言い出す人もいるといいます。
弁護士業は、トラブル気質の人と契約する可能性が、他の業種と比べて圧倒的に多いといわれています。弁護士業界では、相談者の性質を事前に察知することで、できるだけ受任を避けるよう試みてきた歴史があるようです。
往年の弁護士たちは、このことを「受任限度を超える」と表現してきたと伝えられています。
私の受忍限度
しかし、幸いにも、私は上記のような方から依頼を受けることはありませんでした。
弁護士になりたての私を悩ませていたのは、依頼者ではなく、兄弁でした。
※兄弁とは、その事務所にいる男性の先輩弁護士のことです。
女性の場合は姉弁、後輩の場合は弟弁・妹弁といいます。
私が経験したものは、兄弁が、厳しいとか、指導してくれないとか、そういった次元を遥かに超越したものです。
私の最初の職場は、キッチンカーなどで購入したお弁当を事務所内で食べる風習の法律事務所でした。
そして、兄弁は、お昼にお弁当を食べながら、ライスからメインディッシュに至るまで「クッチャ、クッチャ」と口内に空気を巻き込み、「ズルズル」とスープの溶存酸素濃度を増加させたうえ、未使用分の空気は「ハーッ!!」と放出するクチャタイプのポケモンだったのです。
誰もが満たされない時代の中で、特別な出会いはいくつあるのでしょうか。その特別な出会いが、まさかクチャ音につつみ込まれたものとは思ってもいませんでした。
私は、このポケモンの対応に悩みました。
最初はイヤホンを装着してクチャ音を誤魔化していました。しかし、次第に「いじめは、いじめられている方に問題がある」という謎理論が頭をよぎりました。

いじめは、いじめている方が悪いです。いじめられている人は悪くありません。なぜ、いじめられている方が学校を変えたり、普段の生活を変えたりしなければならないのでしょうか。
クチャ行為も、クチャクチャしている方が悪いのです。クチャクチャを聞かされている方は悪くありません。なぜ、クチャクチャを聞かされている私が、職場を変えたり、普段の生活を変えたりしなければならないのでしょうか。
私は、音もなく朝がきて、今日がまた始まる静謐な人生を歩みたかったのです。クチャ音を誤魔化すためであっても、ポケモンのために自身の生活を変更することには納得がいきません。
そうはいっても、「このクチャラーが!」と伝えてポケモンバトルを開始するのはスマートではありません。
私は、このポケモンと法的にバトルしなければならないと考えました。
クチャラーに仮処分を
まずはなんといっても仮処分です。裁判所には、是非とも兄弁のクチャ行為の禁止命令を発してもらいたいです。
我々、平成&令和の国民は重税を払っており、裁判官はその税金で暮らしているとともに、全国民の奉仕者なのですから(日本国憲法第15条2項、国家公務員法第 96 条)、裁判手続を利用できるのであれば利用しない理由はありません。
保全の必要性
民事訴訟の提起ではなく、あえて仮処分を申し立てる以上は、保全の必要性が必要です。すなわち、債権者(私)に生ずる著しい損害又は急迫の危険を避ける必要性がなければなりません(民事保全法23条2項)。
兄弁のクチャ行為により、私の精神は日々蝕まれています。想像してみてください。毎日、お昼の12時から13時の間に、「クッチャ、クッチャ」、「ズルズル」、「ハーッ!!」と繰り返し聞かされる日々を。
このままクチャ行為が続けば、私はストレスの蓄積による多大な精神的、肉体的負担を受けることは明らかです。なによりも、私が法律事務所の移籍を余儀なくされる状況に立つのであり、緊急の必要性があるではありませんか。これは緊急事態です。私は、裁判所にクチャ行為との遭遇が緊急事態であることを認定して欲しいと思います。
被保全権利
被保全権利が認められるためには、人格権などの権利の侵害があったとして、騒音が「受忍限度を超える」ことが必要です。
受忍限度を超えているかどうかは、音の大きさ、時間帯、頻度、音の性質、頻度などを総合考慮して判断されます。
音の大きさと時間帯に関する一つの例として、午前7時から午後9時までは53㏈を超えてはならず、午後9時から午前7時までは40㏈を超えてはならないとした裁判例が参考になります(東京地方裁判所平成24年3月15日判決・平成20年(ワ)第37366号)。
また、裁判例ではなく、行政上の規則として、環境基本法に関する基準が参考になります(環境基本法(平成5年法律第91号)第16条第1項の規定に基づく騒音に係る環境基準)。この基準では、専ら住宅として用いられる地域では、原則として、午前6時から午後10時までは55㏈を超えてはならず、午後10時から翌日の午前6時までは45㏈を超えてはならないと定めています。
※その他にも、各都道府県・市区町村で騒音に関する条例が定められている場合があります。クチャラーの発生した地域に合わせて確認しましょう。
クチャ行為のクチャ音は、距離にもよりますが、日中に50㏈を超えているとは言い難いでしょう。とはいえ、「音の性質」として最高度に不快な音ですから、裁判所にはたとえ50㏈未満であってもクチャ音を発することを禁止して欲しいです。
しかし、現実には裁判所に受忍限度を超えると認められる可能性は低いかもしれません。
もちろん、受忍限度を超えないとすれば、仮処分であっても、通常の民事訴訟であっても、結論は同じでしょう。
クチャラーに刑事手続を
民事手続でクチャ被害者が救済されないのであれば、刑事手続です。
我々、平成&令和の国民は重税を払っており(再掲)、警察官及び検察官はその税金で暮らしているとともに、全国民の奉仕者なのですから(日本国憲法第15条2項、国家公務員法第 96条、地方公務員法第30条)、刑事手続を利用できるのであれば利用しない理由はありません。
犯罪捜査規範61条では、「警察官は、犯罪による被害の届出をする者があつたときは、その届出に係る事件が管轄区域の事件であるかどうかを問わず、これを受理しなければならない。」と定められていることも特筆に値します。
暴行罪
刑法第208条の「暴行」とは、人の身体に対する不法な攻撃方法の一切をいい、傷害の結果を惹起することを要しません(大審院昭和8年4月15日判決)。
さらに、人の身辺の近くにおいて、ブラスバンド用の大太鼓、鉦(かね)等を連打したときは暴行にあたると判示した判例があります(最高裁判所昭和29年8月20日・昭和27年(あ)第6714号)。物理的に手や足を接触させる攻撃ではなく、音による攻撃であっても暴行罪にあたるということです。
そのため、クチャ行為が暴行罪に該当する可能性は全くないとはいえないでしょう。
もっとも、上記昭和29年の判例は、「頭脳の感覚鈍り意識朦朧たる気分を与え又は脳貧血を起さしめ息詰る如き程度に達せしめた」ような場合に暴行罪が成立すると判示しています。
クチャ音は、頭脳の感覚の鈍りを生じさせますが、意識朦朧たる気分を与えたり、脳貧血を起こすような行為とまではいえない可能性があります。
軽犯罪法
刑法では駄目だとしても、軽犯罪法はどうでしょうか。
軽犯罪法第1条14号では、「公務員の制止をきかずに、人声、楽器、ラジオなどの音を異常に大きく出して静穏を害し近隣に迷惑をかけた者」を拘留又は科料に処すると定められています。拘留又は科料も刑事罰の一つです。
【刑法】
第十六条 拘留は、1日以上30日未満とし、刑事施設に拘置する。
第十七条 科料は、1000円以上1万円未満とする。
ただし、「公務員の制止をきかず」という要件があるため、警察官をはじめとする公務員の協力が必要です。
また、個人的には、クチャ音は「異常に大きく出して静謐を害し近隣に迷惑」をかける行為であることに疑いはないと思います。しかし、保守的な裁判所がそこまで踏み込んだ判断をすることにはあまり期待できないのではないでしょうか。
僕に勇気を
民事手続も刑事手続も見込みがないとなれば、やはり自ら戦うしかありません。
ただし、日本国では自力救済は禁止されていますので、自力救済に該当しないスマートな抵抗方法を考えなければなりません。
様々な方法を考えた結果、私は一つの正解に辿り着きました。その方法とは、ポケモンが昼食事にクチャ音を立てるのと同じタイミングで、私も2倍の音量でクチャクチャと音を立てる戦略です。ポケモンの技でいえば「まねっこ」です。
この方法ならば、「このクチャラーが!」と明示的に伝えなくても、兄弁は暗に察してくれるはずです。
兄弁が「クッチャクッチャ」と音を立てれば、私も2倍の音量で「クッチャ!クッチャ!」。
兄弁が「ズルズル」「ハーッ!!」と音を立てれば、私も2倍の音量で「ズルズル!」「ハーッ!!!!」。
私は、1週間の間、この方法で戦い続けました。
当然ながら、兄弁がこのような不自然な状況に気付かない訳はありません。兄弁は、ある日、チラッとこちらを見て、少し悲しそうな表情をしていました。
その後、クチャ音は無くなりました。
そして、私と兄弁の会話も無くなりました。
その1か月後、法律事務所に私の席も無くなったといいます。
めでたしめでたし。